まもなく東日本大震災から2年。しかし、石巻の「時」は、あの日から2年も進んでいないように感じました。
先日、甚大な被害を受けた宮城県石巻市を訪問。がれき処理や港湾の復旧工事の状況を視察してまいりました。
震災で発生した石巻市の災害廃棄物は616万トン。それまでの年間ごみ処理量が約5万8千トンですから、100年分を超える廃棄物が一度に発生したことになります。
災害廃棄物処理施設には、いまだにがれきがうずたかく積まれていました。処理作業は夜間を通して行われていますが、それでも追いつかず、大量のがれきが次々とトラックで運び込まれてきます。
職員の方ががれきを地面に広げ、写真や位牌など被災者の思い出の品ごとに丁寧により分けていました。環境保護のためとはいえ、気の遠くなるような分別作業です。じっと拝見していると、どのがれきも一つも漏れなく、被災者の「生活」「人生」の一部であったのだと、強く胸に迫ってきました。
市内の仮設住宅では、被災されたご婦人から、復興公営住宅への入居も決まらず、ただ不安な毎日を送っているとの切実な声をうかがいました。自動車整備工場を経営する方からも、設備や社屋をすべて流され、何もなくなったところから再起を決意するまでの壮絶なドラマをお聞きしました。
皆様が、どれほど深い悲しみと絶望に打ちひしがれながら、一歩また一歩と前に進んでこられたか。ただただ敬服の思いでした。
震災後まもない時期に、私は法律相談のため東北の被災地を訪れました。
「津波ですべて流されました。これから、どうやって生活したらいいのか……」。すがるような思いで来られた被災者の方々を前に、私は「いま政府が援助を検討しているようです。もう少し頑張りましょう」と声をかけることしかできませんでした。
一番苦しんでいる人に助けを求められているのに、現行の法律の説明しかできない自身のやるせなさ。それと同時に、被災者の声に迅速に反応し、行動する政治の重要性を痛感しました。あの時の体験は、政治の道を志した一つの原点となっています。
東北人は忍耐強いといわれますが、それにも限度があります。遅い。あまりに復興が遅すぎる。政治は何をやっているのか!――これが被災者の心の叫びだと思います。
東北出身者として、一番苦しんだ被災地の方々が、誰よりも幸せになっていけるよう、言葉だけでなく、現実のうえで復興を成し遂げたい。今回の訪問で決意を新たにしました。
このたび、公明党神奈川県本部に「3・11を忘れない防災・減災プロジェクト」が設置され、事務局長の任命を受けました。首都直下型地震、南海トラフ地震など巨大地震が想定されるなかで、3・11の悲しみを二度と繰り返さないためにも、防災・減災のための施策推進が重要です。自身や家族の身を護るための基本となる「自助」、地域で支えあう「共助」の大切さも、しっかりと訴えていきたいと思います。
日本を「防災大国」「安全、安心に暮らせる国」へ。そのために、まず神奈川を「日本一の防災都市」にしていきます。